『鉄鼠の檻』解説 「宗教体験は人を殺すか」
禅は難しい
(『鉄鼠の檻』文庫版 pp.1350 - )
禅は難しい。
その最大の理由の一つは、禅は文献を重んじない点にある。まさに「不良文字ふりょうもんじ」なのである。むろん、各種の公案や道元の『正法眼蔵』のように、重要な文献がないわけではない。しかしその公案や『正法眼蔵』にしたところで、読んで悟れる、というような代物ではない。 読んで悟れるなら、こんな簡単な話しはないのであって、仏教という宗教全体がそのようにはできていない。大半の仏教文献は、体験と照らし合わせて初めて意味をもつべく書かれている。したがって文字面だけを追っても、さして意味はない。 それでも、密教は、儀礼を重んじたり、マンダラをはじめとするいろいろな図像を用いたりするので、まだわかりやすい面がある。とくにチベット密教の場合、修行のノウハウなどがじつに詳細に記されているから、書かれているとおりに実践してみると、それらしい体験が案外、簡単に実現してしまう。逆にいえば、この点はかなり危険でもあり、オウム真理教が勢力を拡大した原因の一半は、ここにあった。 しかし、禅はそうはゆかない。チベット密教とは全く反対に、ノウハウは徹頭徹尾、排除されているあkらである。また禅は、密教と並んで、仏教美術の宝庫だが、密教と違って、禅の美術をいくら見ていても、修行の助けにならない。なぜなら、密教図像は、最初から修行のための、いわば装置として制作されているのに対し、禅の絵画は、到達した境地を、いわば素描しただけで、なにごとかを語ることを拒否しているからである。 悟りとは何か
(『鉄鼠の檻』文庫版 pp.1352 - )
悟りとは、いったい何か。とりわけ、禅における悟りとは何か。 結論からいえば、この質問には答えられない。なぜなら、悟りは言葉による表現を全く拒否しているからである。もし、悟りを定義するとすれば、その最有力候補は、言語表現の彼方、ということになるかもしれない。 仏陀自身はさておき、仏陀在世のころは、悟りはさほど難しく考えられていなかった形跡がある。仏陀の弟子たちから、比較的短期間のうちに悟りを得た者が何人もあらわれ、仏陀と同じく「覚者」と呼ばれていたからである。 しかし、時の経過につれ、原因は定かではないが、悟りは非常に得がたいものとなってゆく。紀元前後ころから起こった大乗仏教の時代になると、「三劫成仏さんごうじょうぶつ」が唱えられるようになる。劫については諸説あるが、いずれにしても人間的な基準からすれば、ほとんど無限に近い時間の長さを意味する。つまり、悟りを得て成仏するには「ほぼ無限 ✕ 3」という時間が必要と考えられていたわけだ。そうなると、悟りとは何か、という設問は」さしたる意味をもたなくなる。 乱暴な言い方をすれば「それでは堪らん!」という悲鳴から生まれたのが、禅と密教かもしれない。禅は来世以降のことを語らない。密教もまた「即身成仏」、すなわち「この世で生きた身体のままで悟れる」ことをめざすべく構想された。「悟りはこの世で」という点において、禅と密教は共通する。いってみれば、禅と密教は、一度は無限の時間の彼方に退けられた悟りを、仏陀在世時と同じように、この世に引き戻したのである。 (『狂骨の夢』まさに積読山脈、山中なのだが、ネタバレてしまった)
脳という檻
しかし、悟りをこの世に引き戻してみると、悟りとは何か、という問題がまた浮上してこざるをえない。この問いに対して、禅は宗教体験という場を最大限、活用した。要するに、悟りは宗教体験という場に顕現する、もしくは宗教体験という場を経て得られる、とみなしたのである。この方式は、なにも新奇なものではない。仏陀が菩提樹下で解脱を遂げたときの原点に回帰したまでである。
もちろん、ここでも多くの難問が出来する。宗教体験の深浅はどのように判別するのか。宗教体験は一回だけで良いのか。悟る前と悟った後で、人は変わるのか否か。などなどである。このあたりのことは、『鉄鼠の檻』巻末近くの京極堂と※※(人名伏せる)の問答で、実に明確に繰り広げられている
(『鉄鼠の檻』文庫版 第10章 pp.1282 - )
(その中でも核心部分は pp.1303 - )
それらと並んで、最も私の関心を引いたのは、京極堂と関口の問答である
(『鉄鼠の檻』文庫版 第6章 pp.822 - )
「そうか。解ったぞ京極堂。坐禅と云うのは薬物を用いずに薬物を投与したのと同じような生理現象を齎もたらす行為なんだな。情報量の少ない状態で五感を研ぎ澄ましていれば、当然のように生理的な変化が起きる。脳内で麻薬が生成されることもあるのだったね。素晴らしき幻覚——神秘が訪れることもある訳だ。しかし、それを——受け流すから修行なんだな。いや、受け流すことができるようになるために修行をする——のかな? ためにとか云ってはいけないのか」 「そうだ。魔境と云うのはその素晴らしく清浄な幻覚自体を云うのではない。その幻覚妄想を、悟りと勘違いしてしまう状況の方を云うのだ。同じ幻覚を見ていて、修行のなっていないものはそれに嵌り、なっているものは受け流すだけだ。だから生理的な区別はない。悟りは脳波では測れない——」
「——解りましたか常信和尚。科学と宗教は、補い合うことはあっても寄り添ってはならぬものなのです」
ここには、禅や密教には必ずといっていいほどついて回る神秘体験( ≒ 宗教体験 )に対する、そこぶる健全な見解が開陳されている
とくに魔境に対する見解は、秀逸というしかない。さらに、宗教と科学という、永遠の課題について、正鵠せいこくを射た見解も述べられている。 この『鉄鼠の檻』が書かれた時期を考えれば、これらの見解は、オウム真理教という、未曾有の惨劇を引き起こしてしまった宗教集団に対する、京極夏彦の解答にほかならないと私は思う。
そしてもう一つ、禅の本質に迫るとおぼしき京極堂の言葉を引用しておこう。これほど鮮烈に禅の何たるかを語った文言を、他に私は知らない
(『鉄鼠の檻』文庫版 第9章 pp.1205 - )
「宗教には神秘体験が必要不可欠だ。しかし神秘体験と云うのは絶対に個人的認識なのだ。仮令どれ程凄い体験であろうとも、神秘は凡て個人の脳内で解決できてしまうものだ。その神秘体験を何等かの説明体系を用いて個人から解き放ち、普遍的なものに置き換えると宗教が生まれる。つまり神秘を共有するために、凡ての宗教は道具 —— 言葉を必要とするのだ」
「 —— 禅は個人的神秘体験を退け、言葉を否定してしまう。禅で云う神秘体験とは神秘体験を凌駕した日常のことを指すのだ。つまり、数ある宗教の形の中で、殆ど唯一、生き乍らにして脳の呪縛から解き放たれ、、、、、、、、、、、、、、、、、、ようとする法が禅なのだ」